腰痛の真実:心理的要因と構造的改善の両面から考える
はじめに:腰痛治療における現代医学の視点と臨床現場からの考察
近年、腰痛における心理社会的要因の重要性が広く認識されるようになり、2015年のNHKスペシャル「腰痛・治療革命」では、腰痛の原因として心理的要因が大きく取り上げられました。確かに、心理的要因が腰痛の発症や慢性化に深く関わることは、現代の腰痛研究において確立された知見です。
しかし、40年近く臨床の現場で患者様の身体と向き合ってきた立場から申し上げると、この視点だけでは腰痛の全体像を捉えきれていないのではないかという疑問を感じています。
特に、番組で紹介された「腰をそらす運動」が心理的恐怖を和らげるという解釈については、もう一つの重要な側面、すなわち腰椎の構造的・機能的改善という物理的側面が見落とされているように思えます。
本稿では、学術的根拠に基づきながら、心理的要因と構造的要因の両面から腰痛を理解し、より包括的な治療アプローチの必要性について考察します。
第1章:腰痛における心理的要因の科学的根拠
1-1. 心理社会的要因と腰痛の関係
腰痛における心理的要因の重要性は、1995年のBoosらの報告を皮切りに、数多くの研究で明らかにされてきました。日本整形外科学会と日本腰痛学会が2012年にまとめた腰痛診療ガイドラインでは、原因が特定できない非特異的腰痛が全体の約85%を占めるとされており、この中で心理社会的要因が重要な役割を果たしています。
具体的には、以下のような要因が腰痛の発症や慢性化と強い関連があることが示されています:
- 仕事の満足度の低さ
- 職場での人間関係のストレス
- 仕事量の多さと精神的ストレス
- 抑うつ状態や不安
- 恐怖回避思考(痛みへの過度な恐怖)
- 破局的思考(「痛みはもっとひどくなる」「人生が終わった」などの極端な考え)
1-2. 脳科学から見た痛みのメカニズム
心理的ストレスが腰痛を引き起こすメカニズムは、脳科学の進歩により解明されつつあります。
通常、痛みの信号が脳に伝わると、脳内でドーパミンという神経伝達物質が放出され、それに伴いオピオイドという物質が多量に放出されます。これにより、セロトニンやノルアドレナリンといった神経伝達物質が放出され、痛みの信号を脳に伝える経路が遮断されます。これが人間に備わった痛みをコントロールするシステムです。
ところが、長時間ストレスを感じていると、脳内のドーパミンが放出されにくくなり、セロトニンの分泌も低下します。その結果、痛みを抑制する仕組みが機能しなくなり、わずかな痛みでも強く感じたり、痛みが長引いたりするようになります。
また、心理的ストレスは「身体化」という現象を引き起こします。これは、心理的なストレスが身体症状として現れる現象で、筋肉の血流不足を招き、酸素欠乏や老廃物の蓄積が起こり、発痛物質が産生されることで腰痛が生じます。
1-3. オーストラリアの成功事例と認知行動療法
オーストラリアでは1997年に「腰痛に屈するな!」という国を挙げた啓発キャンペーンが実施されました。このキャンペーンでは、腰痛に関する正しい知識、特に「腰痛があっても安静にせず日常生活を維持すること」「画像検査で異常が見つからなくても心配しすぎないこと」などのメッセージを広く伝えました。
その結果、医療費が約33億円削減され、腰痛による欠勤日数も減少するという画期的な成果を上げました。
さらに、シドニー大学痛み研究所では、3週間にわたる集中的な認知行動療法プログラムが実施されており、毎日8時間、運動とカウンセリングを1時間ずつ繰り返すという徹底した心理療法により、参加者の約89%(9人中8人)が改善したという報告があります。
第2章:見落とされている視点―腰椎の構造的・機能的改善
2-1. 「腰をそらす運動」の物理的効果
NHKスペシャルで紹介された「腰をそらす運動」について、番組では主に心理的恐怖を和らげる効果が強調されていました。しかし、この解釈には重要な視点が欠けています。
腰をそらす運動は、実際に腰椎の構造的・機能的な改善をもたらす可能性があります。
具体的には、以下のような物理的効果が考えられます:
(1) 椎間板内圧の変化と椎間板の健全性回復
椎間板は、前屈姿勢で圧力が高まり、後屈(そらす)姿勢で圧力が軽減されることが、Nachemsonらの研究(1970年代)により明らかにされています。現代人の多くは、デスクワーク、スマートフォンの使用、家事など、前屈姿勢を取る時間が圧倒的に長く、椎間板には常に高い圧力がかかっています。
腰をそらす運動により、椎間板内の圧力が一時的に軽減され、椎間板への血流が改善し、栄養供給と老廃物の除去が促進されます。これにより、椎間板の健全性が保たれ、椎間板由来の痛みが軽減する可能性があります。
(2) 椎間関節の可動性改善
長時間の前屈姿勢や不良姿勢により、腰椎の椎間関節(後方にある小さな関節)の可動性が低下し、関節包や周囲の靭帯が硬くなります。この状態が続くと、関節周囲に炎症が起こり、痛みが生じます。
腰をそらす運動は、椎間関節を適度に動かし、関節包や靭帯の柔軟性を回復させることで、関節の機能を正常化させます。
(3) 脊柱起立筋群と深層筋の活性化
腰をそらす運動では、脊柱起立筋群(表層の背筋)だけでなく、多裂筋などの深層筋(インナーマッスル)も活性化されます。これらの筋肉は、腰椎を安定させる重要な役割を担っています。
特に多裂筋は、各椎骨を個別に安定させる「局所安定化筋」として機能し、腰痛患者ではこの筋肉の萎縮が認められることが多くの研究で示されています(Hides et al., 1994, 2008)。腰をそらす運動により、これらの筋肉が賦活され、腰椎の安定性が向上します。
(4) 脊髄神経と神経根への圧迫軽減
前屈姿勢では、椎間孔(神経根が通る穴)が狭くなり、神経根への圧迫が強まります。腰をそらすことで椎間孔が広がり、神経根への圧迫が軽減されます。これにより、神経由来の痛みや下肢への放散痛が改善する可能性があります。
(5) 筋膜系の緊張緩和
腰部から臀部、下肢にかけては、広範囲の筋膜ネットワークが存在します。前屈姿勢が続くと、後方の筋膜系が過度に伸張され、筋膜の緊張が高まります。腰をそらすことで、この筋膜の緊張が緩和され、筋膜由来の痛みが軽減します。
2-2. 構造的アプローチの重要性を示す研究
腰痛における構造的要因の重要性を示す研究も数多く存在します。
2019年、大阪市立大学(現・大阪公立大学)の研究グループは、国際腰椎学会(ISSLS)で優秀論文賞を受賞した研究において、体幹筋量と腰痛に関連があることを世界で初めて明らかにしました。この研究では、2,551例の大規模データを用いて、体幹筋量が減少するにつれて腰痛による生活障害度(ODI)が悪化することが示されました。
この研究は、腰痛が単なる心理的要因だけでなく、身体の構造的要因にも深く関わっていることを示す重要な証拠です。
また、McKenzie法として知られる機械的診断と治療(MDT)では、特定の方向への反復運動(多くの場合は伸展運動、つまり腰をそらす運動)により、椎間板由来の痛みを中枢化(集中化)させ、最終的に消失させることができることが報告されています(McKenzie & May, 2003)。
2-3. 臨床現場から見た実態
40年近く臨床の現場で患者様と向き合ってきた経験から申し上げると、心理的アプローチだけで改善する腰痛もあれば、構造的アプローチが不可欠な腰痛もあります。
実際、当院では以下のような施術を通じて、構造的な問題にアプローチしています:
- モーションロックフラクタル:身体の2か所に同時圧を加えることで、正常でない部分の機能を回復させる
- モルフォセラピー:脊柱、後頭骨、骨盤の歪みを、周囲の組織(フォルム)とともにソフトに矯正し、神経伝達や血流を改善する
- PNF筋整復法:固有受容器を刺激し、神経による筋肉の支配性を高め、筋力を回復させる
これらの手法により、多くの患者様が改善されてきました。この事実は、構造的・機能的アプローチの重要性を裏付けています。
第3章:統合的視点の必要性―心と身体の両面からのアプローチ
3-1. 心身一如の東洋医学的視点
私は長年、鍼灸を学び、東洋医学の考え方、特に「統一体観」、つまり身体を一つの統合された存在として捉える考え方を大切にしてきました。
東洋医学では、心と身体は切り離すことができない一体のものとして捉えられます。心理的ストレスは身体に影響を与え、身体の不調は心理状態に影響を与えます。この相互関係を理解することが、真の治療につながります。
現代医学においても、この視点は「生物心理社会モデル(Biopsychosocial Model)」として認識されつつあります。このモデルでは、痛みは生物学的要因(身体の構造的問題)、心理的要因(ストレス、不安、思考パターン)、社会的要因(仕事環境、人間関係)の相互作用によって生じるとされています。
3-2. バランスの取れた治療アプローチ
腰痛治療において重要なのは、心理的アプローチと構造的アプローチのバランスです。
心理的要因だけに着目すると、実際に存在する構造的問題を見落とす危険があります。逆に、構造的問題だけに着目すると、心理的要因が痛みを増幅・慢性化させているケースを見逃してしまいます。
理想的な治療アプローチは、以下の要素を含むべきだと考えます:
- 正確な評価:詳細な問診と検査により、構造的問題と心理社会的要因の両方を評価する
- 適切な情報提供:患者様に腰痛のメカニズムを正しく理解していただき、不要な恐怖を取り除く
- 構造的改善:身体の歪み、筋肉の働き、関節の可動性などを改善する手技療法
- 段階的な活動再開:適切な運動を通じて、身体機能を回復させるとともに、痛みへの恐怖を軽減する
- 生活習慣の改善:姿勢、動作、ストレス管理など、日常生活での改善点を指導する
- 内臓の働きの改善:内臓疲労が身体の歪みや痛みに関係することも多いため、内臓整体も重要
3-3. 「腰をそらす運動」の真の意義
「腰をそらす運動」は、心理的恐怖を和らげる効果と、構造的・機能的改善の効果の両方を持っています。
心理的側面では、「動いても大丈夫だ」という自信を取り戻し、恐怖回避思考を軽減します。同時に、構造的側面では、椎間板、椎間関節、筋肉、神経など、様々な組織に良い影響を与えます。
この二つの側面は、互いに補完し合い、相乗効果を生み出します。構造的に改善すれば痛みが軽減し、痛みが軽減すれば心理的不安も和らぎます。心理的不安が和らげば、筋肉の緊張も緩み、さらに構造的改善が進みます。
この好循環を生み出すことこそが、真の腰痛治療だと考えます。
第4章:臨床家としての提言
4-1. メディア情報の功罪
NHKスペシャル「腰痛・治療革命」は、腰痛における心理的要因の重要性を広く知らしめた点で、大きな功績があります。多くの方が、「腰痛は心の問題も関係している」という認識を持つようになったことは、腰痛治療の進歩につながっています。
しかし、一方で、構造的・機能的改善という重要な側面が十分に伝えられなかったことは、情報の偏りを生んでいる可能性があります。
メディアは、複雑な医学的問題を限られた時間で伝えなければならないため、どうしても単純化や偏りが生じやすくなります。視聴者側も、メディア情報だけに頼るのではなく、複数の情報源から学び、バランスの取れた理解を持つことが重要です。
4-2. 臨床現場での実践
私は40年近く、患者様の身体に触れ、その「身体の声を聞く」ことを大切にしてきました。長年の経験の中で、真剣に患者様と向き合い、得てきた知識や知見、そしてセミナーや書籍で学んだことを、臨床の場で検証し続けてきました。
患者様一人ひとりの身体は異なり、腰痛の原因も多様です。ある方には心理的アプローチが最も効果的であり、別の方には構造的アプローチが不可欠です。多くの場合、両方のアプローチが必要です。
大切なのは、決まりきった方法を押し付けるのではなく、目の前の患者様の身体の状態を正確に評価し、その方に最適なアプローチを選択することです。
4-3. 患者様へのメッセージ
腰痛で悩んでおられる皆様へ。
腰痛の原因は、心理的要因だけでもなく、構造的要因だけでもありません。多くの場合、両方が複雑に絡み合っています。
「心の問題だから」と言われて納得できない方、逆に「構造的な問題だから」と言われて不安が消えない方、どちらの気持ちも理解できます。
重要なのは、あなたの身体全体を丁寧に評価し、心と身体の両面から適切にアプローチしてくれる治療家を見つけることです。
当院では、詳細な検査により本当の原因を探し出し、身体の歪み、筋肉の働き、内臓の状態など、様々な角度から総合的にアプローチしています。そして、必要に応じて、痛みに対する正しい知識もお伝えし、不要な恐怖を取り除くサポートもしています。
40年の経験の中で、「これが決定的な治療法だ」と思ったことは何度もありましたが、その度に難治性の患者様によって、その自信は打ち砕かれてきました。しかし、その経験を通じて、対応できる範囲は確実に広がってきました。
完璧な治療家などいません。しかし、真摯に患者様と向き合い、共に改善への道を歩む覚悟を持った治療家は存在します。私もその一人でありたいと思っています。
結論
腰痛における心理的要因の重要性は、疑いようのない事実です。オーストラリアの成功事例や、認知行動療法の効果は、それを明確に示しています。
しかし、同時に、構造的・機能的改善という視点も決して軽視してはなりません。「腰をそらす運動」一つを取っても、心理的効果と物理的効果の両方が存在し、その相乗効果によって改善がもたらされます。
医学は常に進歩していますが、同時に、過去の知見や伝統的な手技療法の中にも、現代科学で十分に説明しきれていない有効な治療法が数多く存在します。
大切なのは、一つの視点に偏ることなく、心と身体の両面から、そして現代医学と伝統的療法の両方から、患者様にとって最善のアプローチを選択することです。
私たち臨床家は、常に学び続け、患者様の「身体の声」に耳を傾け、一人ひとりに最適な治療を提供する責任があります。
腰痛で悩んでおられる皆様が、適切な治療と情報に出会い、痛みのない人生を取り戻されることを心より願っています。
参考文献
- 日本整形外科学会・日本腰痛学会(2012)「腰痛診療ガイドライン 2012」
- Boos N, et al. (1995) "Volvo Award in clinical sciences. The diagnostic accuracy of magnetic resonance imaging, work perception, and psychosocial factors in identifying symptomatic disc herniations." Spine, 20(24):2613-25.
- Hides JA, et al. (1994) "Evidence of lumbar multifidus muscle wasting ipsilateral to symptoms in patients with acute/subacute low back pain." Spine, 19(2):165-72.
- Hides JA, et al. (2008) "Long-term effects of specific stabilizing exercises for first-episode low back pain." Spine, 26(11):E243-8.
- Nachemson AL (1976) "The lumbar spine: an orthopaedic challenge." Spine, 1(1):59-71.
- McKenzie R, May S (2003) "The Lumbar Spine: Mechanical Diagnosis and Therapy." 2nd ed. Spinal Publications New Zealand.
- 松平浩(2023)「職場における新たな腰痛対策Q&A50 既存の腰痛概念の変革と実践」公益財団法人産業医学振興財団
- 竹内武明ら「ストレス自覚度ならびに社会生活指標が腰痛・関節痛,肩こりに及ぼす影響:都道府県別データの解析」
- 大阪市立大学医学部整形外科(2019)「体幹筋量と腰痛が関連することを世界で初めて明らかに」ISSLS優秀論文賞受賞研究
- Buchbinder R, et al. (2001) "Population based intervention to change back pain beliefs and disability: three part evaluation." BMJ, 322(7301):1516-20.
著者プロフィール
あおやま整骨院あんど鍼灸院 院長 柔道整復師・鍼灸師 神戸市須磨区にて40年近く、腰痛をはじめとする様々な症状の改善に取り組んでいます。モーションロックフラクタル、モルフォセラピー、PNF筋整復法など、複数の手技を組み合わせた「身体の声を聞く施術」を提供しています。